2020年7月4日土曜日

物理を学びたい人文学徒のための読書案内

人文系の学科に籍を置く大学生・大学院生や,現在大学に所属してない方など,物理のフォーマルな教育を受ける機会がない(あるいはなかった)方で,大学レベルの物理を学びたいと思っている方は多いと思う.しかし,カリキュラムを組んでくれる先生や,どのように学習を進めればいいのかについて情報交換してくれる友人・先輩がいない環境で,ゼロから物理を学ぶのは非常に難しい.知識がない状態では,あるトピックについて学ぶ上でどのような予備知識が要求されるのか分からないし,選んだ教科書が自分の知識レベルに合っているかどうかを判別することも難しいからだ.その結果,自分の知識レベルでは太刀打ちできない本を読もうとして,結局挫折することになる(私もそのような経験を何度かした).

この読書案内は,物理をこれから学ぼうと思う人が直面するこの最初の大きなハードルを乗り越える一助になればと思って書いた.もちろん人文系の学生に限らず,物理を学びたい社会人や,理工系の学生にも参考にして頂けると思う.私自身の来歴について少し述べておくと,私は学部時代から今に至るまで哲学を専攻しているが,物理にもずっと興味があり,暗中模索しながら(そして友人や先輩の助けを借りながら)大学レベルの物理とそれに必要な数学を独学してきた.アメリカの大学院では物理を副専攻に選んで授業もいくつか受けたが,ほとんど独学で身に付けたと言っていいと思う.今は物理学の哲学に関心を持っていて,今後本格的に研究を進めようと思っている(まだこの分野での業績は何もないが).なので,私はあくまで物理に強い関心を持つ哲学徒であり,プロの物理学者ではないことをあらかじめ断っておきたい.

数学の予備知識について一言.この読書案内は,少なくとも,数II・Bまでの高校数学を履修済みの方を念頭に置いて作成している.人文系の学生で数IIIや数Cを履修していない方は多いと思う(私は高校時代理系だったので一応どちらも履修していたが).では大学物理を学ぶ前にまず数IIIと数Cを勉強するべきかと言えば,必ずしもそうではない.大学の初年次で勉強する数学は,高校数学で学んだ内容をより厳密な立場から再び論じ,そこからより発展的な内容に繋げていくという性格を持っているので,いきなり大学数学から入っても問題ないと思う.ただ大学数学が抽象的で難しいと感じたら,まず数IIIや数Cの教科書を読んでみるのもいいかもしれない.

以下に挙げる本は,私自身が物理を勉強する上で参考になった本であり,もちろん人によって合う・合わないはあると思う.


【物理に必要な数学】

物理を学ぶに当たって必ず身に付けておくべきなのが,微積分と線形代数である.どちらから勉強を始めてもよいが,すぐに物理に入りたいなら,まず微積分から始めるのがいいだろう(量子力学までは一応線形代数なしでも理解できるので).以下では,私が物理を勉強する上で役に立った微積分と線形代数の本を挙げる.


小林昭七『微分積分読本』(全2巻)裳華房.
説明の分かりやすさに定評のある微積分のテクスト.第1巻では1変数,第2巻では多変数の微積分がカバーされている.本書はあくまで「読本」で,演習問題が付いていないことに注意.第1巻の冒頭近くに登場するε-N論法やε-δ 論法が難しいと感じたら,まず論理学の教科書で量化子の取り扱いに慣れておいた方がいいだろう(お勧めは下に挙げている嘉田勝『論理と集合から始める数学の基礎』である)


小形正男『キーポイント 多変数の微分積分』岩波書店.
良書の多い「理工系数学のキーポイント」シリーズの一冊.このシリーズの他の本と同様,数学的厳密さにはそれほどこだわらず,直観的なイメージを掴むことに重点を置いた本.私にとっては上に挙げた小林『微分積分読本』の第2巻よりも参考になった.


佐野理『キーポイント 微分方程式』岩波書店.
これも「キーポイント」シリーズの一冊.小林『微分積分読本』では微分方程式が登場しないので,この本で補うといいだろう.下に挙げる山本『新・物理入門』を読む前に,本書の第1章で変数分離形の微分方程式の解き方を抑えておこう.


Tom M. Apostol, Calculus, 2nd Edition (2 Vols.) Wiley.
私の最も好きな微積分の教科書.タイトルは Calculus だが,線形代数や確率論もカバーされていて,理工系学部の最初の二年くらいでやる数学が一通り網羅されている.歴史に関する記述が豊富で,歴史的順序と同様に,微分の前に積分が扱われているのが特徴.数学的厳密さと幾何学的直観のバランスが良い.ただ1冊目に読むには少しハードルが高いかもしれない.


川久保勝夫『線形代数学(新装版)』日本評論社.
線形代数への入り口として最適な一冊.説明が懇切丁寧で,行列と行列式,抽象的ベクトル空間,固有値と固有ベクトル,内積空間,正規行列の対角化といった標準的な内容がすべてカバーされている.大学数学に慣れるために,微積分をやる前にこれを読んでおくのもいいかもしれない.数Cを履修していなくてもいきなりこの本から読み始めても問題ない.


【高校物理】

山本義隆『新・物理入門(増補改訂版)』駿台文庫.
初学者にこの本を勧めるのは鬼畜と思われるかもしれないが,やはりこれを勧めないわけにはいかない.私にとって高校物理は,天下り的に与えられた公式を意味も分からず丸暗記し,それに機械的に数値を当て嵌めるだけのつまらない科目だった.その私を,物理の面白さに目覚めさせてくれたのが本書である.私見では,物理には演繹科学と実験科学の二つの側面がある.いくつかの基本原理(仮定)から出発し,数学的な議論によって次々と法則的関係を導出し,それらの関係が(不思議なことに)実験や観察データと上手く合致する,というところに物理学の面白さがあると思う.山本『新・物理入門』は確かに簡単な本ではないが,公式がすべて基本原理から導出されているので,普通の高校物理の教科書では味わえない,物理の演繹科学としての側面を堪能できる.要求される数学力は,高校物理の参考書としては高いが,数IIIの微積分と,佐野『キーポイント 微分方程式』の第1章の内容を把握しておけば大丈夫だと思う.


【古典力学】

藤原邦男『物理学序論としての力学』東京大学出版.
山本『新・物理入門』を読み終わったら次はこれを読もう.歴史的な記述が豊富だったり,著者が自ら行った実験のデータがあったりと,一風変わった古典力学の教科書.表題にある通り,力学を通して物理学の面白さを伝えたいという著者の熱意が伝わってくる名著である.


高橋康『量子力学を学ぶための解析力学入門』講談社.
量子力学に入る前に読んでおきたい解析力学の教科書.「量子力学を学ぶため」という目的に特化されているので,決して網羅的ではないが,説明は分かりやすいし,著者の含蓄のある言葉が随所に散りばめられているのも良い.Legendre変換については説明不足なので,田崎『熱力学』の付録で補うのがいいだろう.


【相対性理論

Robert Resnick, Introduction to Special Relativity. Wiley.
大学の1・2年次では,初等力学と並行して電磁気学を学ぶのが普通だと思うが,電気と磁気の関係を理解するには特殊相対論のLorentz変換を知っておいた方がいいので,電磁気学に入る前に特殊相対論を勉強しておくのがお勧めである.特殊相対論は,概念的な難しさはあるが,要求される前提知識は古典力学と高校レベルの代数学だけなので,早いうちに履修してしまうのがいいと思う.本書は英語ではあるが非常に分かりやすい,標準的な内容のテクストである.電磁気学を学んでいないなら,最後の第4章「相対論と電磁気」だけ飛ばして,電磁気学を勉強した後にまた戻って読んでみるのがいいだろう.


James J. Callahan, The Geometry of Spacetime: An Introduction to Special and General Relativity. Springer. 〔邦訳:James J. Callahan『時空の幾何学―特殊および一般相対論の数学的基礎』(樋口三郎訳)森北出版 .〕
数学科の学生向けに書かれた特殊・一般相対論のテクスト(著者は数学者).タイトルにある通り,相対論を徹底的に幾何学的観点から扱っているのが特徴.例えば特殊相対論に入る前にMinkowski幾何学にかなりの紙数が費やされているし,一般相対論の準備として微分幾何学(の必要な部分)が丁寧に解説されている.実際,本書は微分幾何学の入門書としても使えるように書かれているようだ.こうした幾何学的アプローチの利点として,他書ではただの抽象的な数式として与えられがちな概念を,明快に視覚化できるという点がある.例えばLorentz変換が双曲回転に相当することを踏まえておくと,相対論に特徴的なFitzgerald収縮や時間遅延を,座標系の回転による効果として直観的に理解できる.また,特殊相対論から微分幾何学への橋渡しの役割を果たす本書の第4章は非常にユニークで,特殊相対論の枠組みの内部で加速運動を扱うことで,「曲がった時空」という概念の必要性を自然に導いている.本書は数学徒向けに書かれているので,物理学書にありがちな暗黙の物理的仮定や論理の飛躍を極力排した,極めてクリアな記述になっている.今まで何冊か一般相対論のテクストに目を通してみたが,その中で一番分かりやすいと思う.要求される前提知識は線形代数・微積分と多少の古典力学だけで,一般相対論に必要な微分幾何学は一通り解説されている.相対論の科学史的・実験的背景についてはやや手薄なのと,相対論の帰結としての宇宙論などはカバーされていないので,そこは他書で補いたいところ.また本書を読む前に前掲のResnick本などで特殊相対論を一度は勉強しておくことをお勧めする.『時空の幾何学』というタイトルで出ていた日本語訳は長らく絶版だったが,2021年6月に復刊されるようだ.


【電磁気学】

Edward M. Purcell, Electricity and Magnetism, 3rd Edition. Cambridge University Press. 〔第2版邦訳:Edward M. Purcell『電磁気』(飯田修一訳)丸善出版〕.
電磁気学教育の名著.学部レベルの標準的な教科書では,電気と磁気をそれぞれ独立した現象として扱って,最後のあたりになってようやく「実は電気と磁気は同じものの二つの現われなんですよ」というような解説がよくなされる(例えば英語圏で人気のGriffithsはそう).それに対して本書では,かなり早い段階で特殊相対論が導入され,磁気の性質がすべてCoulomb力,Lorentz変換,そして座標変換に対する電荷の不変性の結果として導かれているので,電気と磁気の深い結び付きが際立って見えてくる.前提知識として特殊相対論は要求されるが,必要なベクトル解析はすべて解説されているし,説明も非常に丁寧で論理的である.原著第3版では演習問題への解答や,曲面座標での微分演算子についての付録などが追加されていて助かる.原著第3版の邦訳はないが,第2版の邦訳は「バークレー物理学コース」シリーズの『電磁気』(飯田修一訳;丸善出版)として出ている.


【量子力学】

前野昌弘『よくわかる量子力学』東京図書.
量子力学の教科書ではおそらくこれが一番易しい.量子力学の教科書は大きく分けて,公理的なアプローチで書かれている本と,前期量子論から始まる歴史的なアプローチで書かれている本があるが,本書は後者である.数学的な議論スタイルが肌に合う人(私もそうだが)は,公理的なアプローチで書かれている清水『量子論の基礎』から始めた方がいいかもしれない.なお,この本に限らず,量子力学を学ぶための前提知識として,線形代数と解析力学は必須である.また本書では付録に簡単な解説があるが,Fourier変換も知っておいた方がいいだろう(Fourier変換については,「EMANの物理学」にあるFourier解析についての一連の記事が分かりやすくまとまっている:https://eman-physics.net/math/contents.html


清水明『新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために』サイエンス社.
入門レベルの量子力学の教科書の中では個人的に一番好き.量子論の基礎的・概念的な部分が,公理論的な立場から懇切丁寧に解説されている.あくまで「基礎」なので,応用例はほとんど出てこない(出てくるのは井戸型ポテンシャルと調和振動子くらいで,水素原子の波動関数の計算も出てこない).Bellの不等式がカバーされているのと,ブラケット記法で書かれているのは嬉しい.


David Bohm, Quantum Theory. Dover. 〔邦訳:D. ボーム『量子論』(高林武彦・井上健・河辺六男・後藤邦夫訳)みすず書房〕.
最初に刊行されたのは1951年なのでかなり古い教科書だが,今も十分読む価値のある名著.David Bohmといえば,彼独自の量子力学の解釈であるBohm解釈(軌跡解釈)で有名だが,本書は正統派のコペンハーゲン解釈の立場から書かれている.とはいえ,「思考と量子プロセスとのアナロジー」といった,のちのBohmの哲学を思わせる独創的な着想も見られる.


J. J. Sakurai, Modern Quantum Mechanics, 2nd Edition. Cambridge University Press. 〔邦訳:J. J. サクライ『現代の量子力学』(桜井明夫訳)吉岡書店〕.
難しいことに定評がある量子力学の教科書だが,第2章までは(WKB近似の箇所を除いて)それほど難しくないと思う(角運動量を扱った第3章あたりから辛くなる).冒頭の,Stern-Gerlach実験から量子力学の特徴を浮き彫りにさせる箇所は非常に明快だし,時間発展演算子が満たすべき性質からSchrödinger方程式を導出するといった感動的な議論が詰まっているので,最初の二つの章だけでも読む価値があると思う.経路積分,Aharonov-Bohm効果,EPR論証,同種粒子の置換対称性といった哲学的含意のある話題が扱われているのも嬉しい.2020年に第3版が出た


【熱力学・統計力学】

田崎晴明『熱力学―現代的な視点から』培風館.
日本の物理学の水準を向上させることにおそらく貢献している名著.熱力学の体系を構築する中心部分はもちろん,化学への応用(第9章)も素晴らしい.強磁性体を扱った第10章は,同著者の『統計力学〈2〉』の第11章「相転移と臨界現象入門」を読んでからの方が分かりやすいと思う.付録にある凸関数やLegendre変換の解説は重宝する.


田崎晴明『統計力学』(全2巻)培風館.
「ラノベ」と評する向きもあるようだがそんなことはない.同著者の『熱力学』よりは難しいと思う.とはいえ本書もやはり名著で,読むだけで世界が広がる感覚がある.特に第2巻の量子理想気体の章は感動的ですらある.著者が「はじめに」で述べているように,熱力学が壮麗な構築物(おそらく人間が作ったのではない構築物)だとすれば,統計力学はむしろ生き生きとした雑多な「文化」のようなもので,本書はその一端を垣間見せてくれる.


【複雑系】

Steven H. Strogatz, Nonlinear Dynamics and Chaos: With Applications to Physics, Biology, Chemistry, and Engineering. CRC Press. 〔邦訳:ストロガッツ『非線形ダイナミクスとカオス』(田中久陽・中尾裕也・千葉逸人訳)丸善出版〕.
私がもともと物理を勉強しようと思ったきっかけは,複雑系に神秘を感じたからなので,どうしてもこの分野の本も紹介しておきたい(「複雑系って何ぞや?」という方には,蔵本由紀『新しい自然学―非線形科学の可能性』をお勧めしたい).本書は非線形力学とカオスへの入門書として定番のテクストである.説明は直観的で分かりやすく,この分野のトピックを一通り俯瞰できるので,一冊目に最適だと思う.ただ数学的結果の多くが証明されておらず,天下り的に与えられているのが残念(特に解の存在と一意性の定理や,Poincaré-Bendixsonの定理の証明は付録などに載せれば良かったのにと思う).数学的に厳密な議論については,Hirsch-Smale-Devaneyの『力学系入門』で補うのが良いかもしれない.著者のCornell大学での講義「非線形力学とカオス」がYouTubeに公開されているので,英語が苦でなければ併せて視聴するといいだろう:https://www.youtube.com/playlist?list=PLbN57C5Zdl6j_qJA-pARJnKsmROzPnO9V


金子邦彦『生命とは何か 第2版 複雑系生命科学へ』東京大学出版.
物理学書ではなく,物理学者によって書かれた生命科学の本.遺伝子の起源,細胞分化,形態形成,種分化,ゆらぎによる環境への応答といった現象を,力学系理論・数理モデルを通して理解するといった趣旨の内容.学部生の頃に読んで感銘を受けた.生物学の背景知識がなくても分かりやすく読める.金子先生は最近『普遍生物学』と『細胞の理論生物学』という本も新しく出されている(後者は共著)ので,そちらも読んでおきたい(私は未読).


【数理論理学】

論理学は必ずしも直接物理学に必要なわけではないが,数学を勉強する上で論理学の知識は役に立つ(例えば多重量化が分からない状態でε-δ論法を理解するのは難しいと思う)し,哲学をやろうと思う人にとっては論理学は必須である.また量子論理や,物理学への計算可能性理論の応用など,物理学と論理学の興味深い繋がりも色々ある.


嘉田勝『論理と集合から始める数学の基礎』日本評論社.
数理論理学への入門書というわけでなく,数学を学ぶすべての人が知っておくべき基礎的な素養をまとめた本である.日本語の解説が非常に練られていて明晰である.これから論理学を学ぼうと思う人にとって一冊目に最適.物理学や哲学を学ぶ者にもお勧め.


丹治信春『論理学入門』ちくま学芸文庫.
著者の『タブローの方法による論理学入門』を文庫化したもの.元のタイトルにあるように,タブロー法による命題論理,述語論理への入門書.タブロー法は視覚的なので私は好きだし,論理学への入門にも一番良いアプローチだと思う.初学者を述語論理の健全性・完全性とLöwenheim–Skolemの定理まで導いてくれる好著である.


H.-D. Ebbinghaus, J. Flum, Wolfgang Thomas, Mathematical Logic, 2nd Edition. Springer.
中級レベルの数理論理学のテクスト.記述はこの上なく明晰で,補題や定理が有機的な繋がりを持って展開されている.Part A(I~VIII)では一階論理の完全性,コンパクト性,Löwenheim–Skolemの定理といった標準的な内容がカバーされている.Part B(IX~XIII)では発展的なトピックが紹介されていて,(XIII以外)章ごとに内容が独立しているので,興味を持った章だけを読むことができる.IXでは一階論理と算術の決定不能性やGödelの不完全性定理などのlimitativeな結果が,XIIとXIIIではEhrenfeucht–Fraïssé gameやLindströmの定理といったモデル理論の発展的な話題が取り上げられている.


照井一成『コンピュータは数学者になれるのか?―数学基礎論から証明とプログラムの理論へ』青土社.
タイトルから受ける印象に反して,高度な話題が凝縮された硬派な啓蒙書.細かいところを気にせずラノベ感覚で読むのがいいだろう.学習意欲を駆り立ててくれる好著である.


最終更新:05/09/2021

2019年6月1日土曜日

最近聴いている曲リスト

【中世音楽/教会音楽】

Graduel D'Alienor De Bretagne - Plainchant et polyphonies des XIII & XIV siecles



Fontevraud修道院の尼僧院長,BretagneのAliénorが所有していたgradual(ミサの楽曲を集めた本)にある典礼歌を,中世音楽の演奏で有名なEnsemble Organumが再現したもの.冒頭の"Natus est hodie Dominus",二曲目のKyrie,四曲目の"Per te Dei genitrix",10曲目の"Hodie donum datur gracie",11曲目の"Viderunt omnes fines terre"が特に好き.

Anon. 1225 - Miri it is while sumer ilast



13世紀前半の歌で,現存する英語の歌で最古のものらしい.中英語だけど,何となく意味を拾える.中世の音楽で残っているのは宗教音楽が多いと思うけど,これは冬の厳しさを歌った世俗の歌で,本の中に楽譜の書かれた紙片がはさまれていたことで現代に伝わっているらしい(https://earlymusicmuse.com/mirie-it-is-while-sumer-ilast/

Мария, Дево чистая, Пресвятая Богородице



Агни Парфене (Agni Parthene)というロシア正教の聖歌.もともとはΑγνή Παρθένεというギリシア語の歌で,19世紀にエギナの聖ネクタリオスが作曲したもの.ギリシア語版しか知らなかったけど,ロシア語版の方が好きかもしれない.ヴァラーム修道院の合唱団が歌うバージョンも良い ↓

Valaam Brethren Choir - Agni Parthene



【Future Garage】

Vacant & Sorrow - Requiem



最近聴いた曲の中で一番好きかもしれない.純粋なる恍惚としか言いようがない.

Vacant - Overnight



Vacantの曲は全部良いので聴いて欲しい.

Phelian - With You



Phelian - Lost



Victoriya - For You



【Electronic/Chillstep】

Phaeleh - Feel You Fade (ft. Augustus Ghost)



歌詞が良い."Would you take me intravenously? / Feel me dancing in your bloodstream / Could you love more easily / If I were dancing in your bloodstream?"

Synthetic Epiphany - This Metal Skin



Synthetic Epiphanyが作る複雑で奥行きのある音は昔から大好き.

Synthetic Epiphany - Motion



Synthetic Epiphany - The Dying of the Light



【Dubstep】

Vacant x Aesthetic Kid - Knøw



【Ambient】

Grandyzer - Foreign Body



Oleg Byonic - 8848 Meters Above Sea Level



【Trance】

The Blizzard With Gåte - Iselilja

 

この曲自体は昔から知ってたけどこのバージョンは最近初めて聴いた.後半の盛り上がり方が良い.

2019年3月30日土曜日

Natus est hodie Dominus (Lyrics)

Natus est hodie Dominus

Source: Ensemble Organum, Graduel de Aliénor de Bretagne: Plain-chant et polyphonies des XIIIe & XIVe siècles



Natus est, natus est, natus est hodie Dominus
qui mundi, qui mundi, qui mundi diluit facinus
quem pater factor omnium
in hoc misit exilium
ut facturam redimeret
et paradiso redderet.

Hec minuit quod erat
assumens quod non erat
sed carnis sumpto pallio
in virginis palatio
ut sponsus de thalamo o
processit ex utero o

flos de iesse virgula a
fructus replet secula a
hunc predixit prophetia
nasciturum ex maria
quando flos iste nascitur
diabolus confunditur
et moritur mors et moritur mors et moritur mors.

Igitur, igitur, igitur mundana fabrica
iam nova, iam nova, iam nova concrepent cantica
pax pax pax est in terris reddita
per prothoplaustum perdita
orta prole summi patris
sacro sancta carnem matris
cipressus ex platano
veniens a libano o
est inclinata deitas
ut assumeret humanitas

o quanta leticia a o et quanta gracia a
tanta rei gaudia se ineffabilia a
o nativitas miranda o et dies veneranda
o stella maris inclita
eternem solem rogita
ut adiuvet nos ut adiuvet nos ut adiuvet nos.

Lux anni, lux anni, lux anni reducta ferculo
festiva, festiva, festiva refulget seculo
quam lux hominis filius
carnem suscepit virginis
in huius valle iherito
de germine Davitico
o magnus misterium !
o quale solatium !
deum qui cuncta condidit
puelle mater edidit.

Cuius puerperium
mundo fert remedium
missa pascit hostia
de superna gratia a.

Ergo fratres exultemus
et hec festa celebremus
ut hec nobis festivitas
sit omnibus prosperitas
Diex amen amen Diex amen !



He is born, He is born, He is born this day, the Lord
Who from the world, Who from the world, Who from the world hath washed our crime,
Whom the Father, the Creator of all things,
Hath sent into this exile,
That He redeem what hath been committed
And restore us to paradise.

He hath diminished what He was
Assuming that which He was not,
But having clothed Himself in flesh,
In the virginal palace,
As a bridegroom from the bridal chamber,
He came from the womb.

Flower of the staff of Jesse,
Fruit that replenisheth the ages,
This was foretold by prophecy,
That He would be born unto Mary.
When this flower was born,
The devil was confounded,
And death died, and death died, and death died.

Accordingly, accordingly, accordingly throughout the created world,
let new songs resound,
Peace, peace, peace hath returned to the world,
Which was lost by the first man.

Thanks to the offspring of the Almighty Father,
Issued from the most holy flesh of the Mother,
Cypress issued from the plane-tree
Come from Lebanon,
His Divinity deigned to lower itself
In order to assume human form.

Oh, what joy ! An oh, what grace !
Such rejoicing at an ineffable event.
Oh, admirable nativity! And oh, revered day !
Oh, sublime star of the sea,
Beseeching the eternal sun
That He come to our aid.

Light of years, the soul's sustenance,
Festive light, festive light, festive light shining upon the ages,
O what light, the son of man
Hath taken virginal flesh
In the valley of Jericho
Born of the seed of David.
O great mystery !
O what comfort !
The virgin mother hath given birth
To the God Who hath created all things.

Her childbirth
Hath brought redemption to the world,
The paschal victim feeds us
With eternal grace.

Therefore, brethren, let us rejoice,
And celebrate these festive days,
That unto us this feast
Be bountiful unto all men.
God, amen, amen God, amen !

2019年2月18日月曜日

イ・チャンドン『バーニング』考察(ネタバレあり)

イ・チャンドン監督の『バーニング』を観た.観終わった直後は?だったけど,しばらく反芻しているうちに頭の中で熟成していく作品だ.以下,思い付いたことを綴っていく(ネタバレ注意)

まず,ヘミは最初から実在していなかったんじゃないか.その理由は次の通り.

(1) ヘミは主人公ジョンスにとって不自然なほど都合の良い女性として描かれている.ジョンスにとって,彼女はたまたま再会した幼馴染であり,なぜか自分に好意を持っており,自分にアプローチしてきてすぐにセックスする.ヘミは男の理想を具現化したような存在であり,これは,彼女がジョンスの妄想であることを示唆している.

(2) ジョンスはなぜかヘミの過去について何も覚えていない.昔,ヘミのことをブスだと言ったことを覚えていないし,井戸に落ちた彼女を彼が見つけたエピソードも覚えていない.井戸のエピソードについては,ヘミの家族が,そんなことは起きていないし,そもそも井戸なんてないよ,と言うシーンもある.これもやはりヘミの非実在性を示唆しているように思える.(ヘミの家族が実在しているじゃないかと言われるかもしれないが,それは重要ではないと思う.このような作品において重要なのは,論理的整合性ではなく暗示である)

(3) 序盤で,ヘミが蜜柑の皮を剥くパントマイムをするシーンがあるが,そこで彼女は,「蜜柑が存在しないことを忘れる」のがコツだと言う.これは,ジョンスも同様にヘミが存在しないことを忘れていることの暗示に思える.

(4) ヘミが飼っている猫が存在しているのかどうか,はっきりしない.この猫の存在の曖昧性は,ヘミの存在の曖昧性と重なる.

ヘミが実在しないのであれば,ベンも実在しないんじゃないかという疑いも出てくる.実際,ベンもかなり不自然なキャラクターである.彼はお金持ちのイケメンであり,女性にモテて,ポルシェを乗り回し,仕事をせず遊んで暮らしている.このような外面的な属性を色々持っているものの,彼の内面は全くの空白である.それは彼が,生身の人間というよりは,ジョンスがなりたいけどなれない男性の象徴だからではないか.ヘミがジョンスにとっての女性の理想像であるように,ベンはジョンスにとっての男性の理想像なのだ.

このように,主人公以外の登場人物が,主人公の内面世界の比喩として機能することは,村上春樹の作品によくある.例えば『スプートニクの恋人』におけるKとすみれが同一人物なのは,分かりやすいと思う.あれは行方不明になった自分の分身を探し求め,最後に再会するという物語だ.それに対して『バーニング』では,ジョンスは自分の分身であるベンを最後に殺してしまう(それがどういう意味を持っているのかはよく分からないが)

ところで,ジョンスが最後にベンを殺しに行く直前,ヘミの部屋で,何かを決心したような面持ちでパソコンに文章を打ち込むシーンがある.小説家志望のジョンスは,小説をどのように書くべきか,それまでずっと迷っていたものの,それをようやく書き上げたわけだ.その直後に彼が取る行動は,実は小説の中の出来事なのではないかと思わせるシーンだが,そう考えると,ますます現実と主人公のフィクションの境界が曖昧になっていく.

中盤で,ヘミが「メタファーって何?」とベンに聞くシーンがある.それに対してベンは,「それはジョンスに聞いた方がいいんじゃない?」と答える.両者ともジョンスの内面世界のメタファーだとすれば,この台詞は頷ける.

2018年11月27日火曜日

Charles S. Peirce - The Use of Solitude (MS 891, 1860)

The following is an entry in Peirce's notebook "Private thoughts principally on the conduct of life" (MS 891), dated April 1, 1860. Scans of the original notebook entry are available here and here.



     O, they who know what it is, feel its use! But who does know it? The poet or sentimentalist who shuts himself up for an hour or a day or three days seems to himself to feel the excellence of solitude. But he is mistaken; his condition is not solitude; this: to live in the desert after the two months home-sickness, thoughts of home, and care for home are over, and before any prospect of return to the world has brought them back, this is solitude.
     And these are its properties:
     Negatively, it is a soothing absence of all care for appearances,—it is the normal absence of all thoughts of the fictitious and factitious.

"Sleep, sleep, today, tormenting cares
Of earth and folly born."

     Positively, everybody knows it is drawing nigh unto the personality in nature, and that it is, in an humble sense, walking with God. It is a calmness preparatory to enthusiasm on those things worthy of enthusiasm & the enthusiasm it makes is of calm and noble, unparitzan nature. Thus, rightly used, Solitude has a reference to the world, and if it is rightly used, the mind grows under its climate. Man, certainly, was not made for solitude; hence taken as an end in itself, it only hurts. It enervates. The mind just emerged from it lacks that hardihood which pertains to those who have been grappling with circumstances & exposed to the storms of life. It is, in fact, a green-house and a nursery.
     The Important portion of this earth consists of variegated land, with inland seas (the Atlantic, the Mediterranean, the Indian, the Arctic) all made for the promotion of intercourse. This is man's workshop. But a full half of the globe is nothing but a polynesian ocean—all isolation—with nothing out of the monotony, either to think of or to care for. Thus we see that the idea that man should sometimes be solitary is expressed in the very contour and face of the planet.
     THE MIND, too, is constructed in its contemplative, concentrative faculties, with the same thing in view; and people who live in cities and who violate this physical and mental law of nature, are doomed to a degeneracy, in consequence; and, in my opinion, it should be made one principal point in a boy's or a girl's education, besides instructing them in literature & philosophy & in the accomplishments of discernment and readiness, to teach them also the depth, the power, and the use of solitude.

2018年8月27日月曜日

【読書ノート】 William Seager, Natural Fabrications: Science, Emergence and Consciousness

"The creation of the magnetic field of a bar of iron by spontaneous symmetry breaking is thus a case of emergence which is unpredictable in principle. Similarly, the ratio of the relative strength of the four forces and the masses of the force carrying particles may not be set by nature but emerge through a random process. No matter how much one knew about the symmetric phase, it would be impossible to predict these values" (p. 23)
→ 強磁性体をCurie温度以上に熱すると強磁性が失われるが,それを徐々に冷却していくと再び強磁性が回復する.磁性体は同時に,特定の(当初とは異なる)磁気モーメントの向きを得るが,この向きを決定する法則はなく,ランダムに決まる.これは自発的対称性の破れの一例.強磁性を回復する前は,磁気モーメントの向きに関してすべての空間方向が対称的だが,強磁性の回復によってこの対称性が自発的に(ランダムに)破れる.初期宇宙において,一つの統一的な力から四つの基本的な力が分れていったのも,同様の過程によると考えられている.いずれの場合においても,対称性が破れる前の状態において,破れた後の状態に関わるパラメータ(強磁性体の場合は磁気モーメントの向き,四つの力の分岐の場合は力の相対的な強さや媒介粒子の質量)は原理的に予測できない.したがってこれは創発(正確には下で触れる通時的創発)の例である.

"Picture then the state of the universe when approximately 1 s old. Is there anything missing from our cosmological picture? Considered from the standpoint of the recognized scientific disciplines, almost everything. There is no chemistry (organic or even inorganic), no biology, no psychology and no sociology. Is this surprising? From a purely physical point of view, not at all. Conditions of the universe at this time are, by Earthly standards, very extreme. The temperature was something like one billion degrees and it was quite impossible for atoms to form. The formation of stable atomic nuclei was just becoming possible as the temperature dropped below 1 billion. There was then a small window of opportunity where density and temperature permitted the synthesis of hydrogen and helium nuclei (as described above). Thus it is a natural fact that the only science which applies to the universe at the age of 1 s is physics. As we move back in time closer to the big bang itself, we encounter more exotic, eventually frankly speculative, physics, but it’s physics all the way back. However, as we pursue time away from the big bang towards the present, we obviously enter the domain of application of all the other sciences. Thus, for example, chemical and biological entities and processes (such as molecules, bonding, living organisms and natural selection) must be in some sense emergent phenomena. A little more precisely, any phenomenon which appears in a system which heretofore did not exhibit it can be labeled diachronically emergent. The cosmological tale as we now conceive it must be a tale of diachronic emergence" (p. 23)
→ ビッグバンから1秒後の宇宙には当然,生物学や社会学の研究対象となるようなものはなく,すべて物理学の研究対象となるものである.つまり初期宇宙に適用可能な科学は物理学だけである.そこから時間が経つにつれて,化学や生物学といった他の科学が研究するような対象が徐々に生まれてくる.これも通時的創発である.通時的創発と対比される創発の形態として,共時的創発(synchronic emergence)も考えられる.上で触れたような宇宙の発展は,通時的創発だけでなく共時的創発も示している.というのも,初期宇宙に存在していた対象は,生物学的な性質(例えば自然選択によって進化するといった性質)を持っていなかったと考えられるが,120億年後には,そのような性質を持った対象が存在することが知られているから.

"The weird behavior of some quantum systems called entanglement, in which two systems that have interacted maintain a mysterious kind of connection across any distance so that interaction with one will instantaneously affect the state of the other, might appear to contradict the adjacency requirement of cellular automata. But, again, it is far from clear that this is a real problem for digital physics and for the same reason. The spatial distance separating the ‘parts’ of an entangled system which makes entanglement seem ‘weird’ need not be reflected in the underlying workings of our hypothetical universal CA. In fact, could it be that the phenomenon of quantum entanglement is trying to tell us that what we call spatial separation is not necessarily a ‘real’ separation at the fundamental level of interaction?" (p. 70)

"When we burn books, it looks as though we are destroying information, but of course the information about the letters remains encoded in the correlations between the particles of smoke that remains; it’s just hard to read a book from its smoke. The smoke otherwise looks universal much like the thermal radiation of a black hole. But we know that if we look at the situation in detail, using the full many-body Schrödinger equation, the state of the electrons evolves unitarily" (Luboš Motl, "Hawking and Unitarity").

"Although both the weather and the Solar System are chaotic dynamic systems, the timescale on which chaos reveals itself in the latter case is so long that we can preserve the illusion that the Solar System is easily predictable. The same would be true of the weather if we wished to use our models to make predictions for the next five minutes (though of course it will take longer than five minutes to get any ‘predictions’ out of our weather models). Predictability is a relative notion: relative to the timescales natural to human observers, relative the natural timescales of chaos of the systems in which we are interested and relative to the time it takes for our models to generate their predictions" (p. 104)

自然の階層構造

自然が階層構造を成していることは自明であるという前提でSeagerは議論を進めている:"If anything about the structure of nature seems obvious and irrefutable it is that nature possesses a hierarchical structure within which ‘higher level’ entities have properties lacked by ‘lower level’ entities" (p. 65). しかしこれは決して自明ではない.実際,自然が階層構造を成していることを否定する論者もいる (James Ladyman & Don Ross, Every Thing Must Go).ここでは「自然が階層構造を成している」という描像がどの程度の妥当性を持つか考えてみる.

私たちが「階層」と呼んでいるのは現象のパターンであり,自然をどのように階層に切り分けるかは,どのパターンに注目するかという観測者の視点から切り離せないように思われる.ただ,四つの基本的な力の到達距離と強さの違いが,観測者の視点に依存しない自然な階層を作っているのは事実である.例えば強い力の到達距離は10 -15 [m] くらいなので,それよりも大きいスケールではその影響を無視できる.また重力に比べて電磁気力の方が圧倒的に強いが,大きい物体では電磁気力は打ち消し合う傾向にあるので,天体のスケールまで行くと重力の影響だけを考えることになる.このように,原子核のスケール,電磁気力支配のスケール,そして重力支配のスケールという三つの自然な階層を区別できる(ただし電磁気力支配から重力支配への移行は滑らかである).

しかし私たちはスケールだけで自然を階層に切り分けているわけではない.例えば生物個体や生物集団に固有のスケールは存在しない.私たちが生物個体の階層を階層として同定するのは,生物に特有の振る舞いのパターン(自己増殖,エネルギー変換,恒常性維持など)に注目することによってである.また生物個体の階層が決まれば,生物集団の階層がそれに相対的に決まる.一般に,自然の中のどのパターンに注目するかという観測者の視点から独立に自然の階層構造が厳然と決まっているわけではないと思われる.この点を念頭に置く限り,「下位」レベルからの「上位」レベルの創発を考えることに特に問題はないだろう.

Conservative and radical emergence

Seagerは(通時的・共時的創発の区別とは別に),下位レベルの法則によって上位レベルの性質をすべて「原理的に」記述できるかどうかによって,創発を"conservative emergence" (CE)と"radical emergence" (RE)の二種類に分けている.記述できるのがCEで,記述できないのがREである.問題は,この世界にREが存在するかどうかだが,SeagerはREの存在を否定し,CEだけが存在するという立場を取っている.そして究極的には,世界のすべての現象は「原理的には」基礎物理学の法則によって記述できるという(「原理的には」って便利の良い言葉だなと思う.原理的に記述できるかどうかって一体どうやって判定するんだ?)

しかし私はSeagerの立場に懐疑的で,「原理的にも」(それがどういう意味であれ)基礎物理学によって記述できないような現象があるのではないかと考えている(そもそもSeager自身が取り上げている上記の対称性の自発的破れはREの例ではないのか?).Seagerを含む分析系の哲学者には,上位レベルの現象のモデルは,下位レベルのモデルの単なる「圧縮」だと考えている人が多い印象がある.つまり彼らは,上位レベルのモデルが,予測にとって実際的には有用だったり不可欠だったりするとしても,下位レベルのモデルから情報の一部を削ぎ落としただけのものだと考えている.因果構造の情報論的な分析から,実はそうではないと論じる面白い研究がある:Erik P. Hoel (2017) "When the Map is Better Than the Territory”(テクニカルでない解説としては,同著者の"Agent Above, Atom Below: How Agents Causally Emerge from Their Underlying Microphysics"を参照).それぞれのレベルにおける現象のモデルの因果構造を情報伝送路に見立てると,誤り訂正符号が情報伝送を効率化するのと同じ原理で,上位レベルのモデルは下位レベルのモデルを効率化するらしい.その結果,上位レベルのモデルが下位レベルのモデルよりも大きな情報量を持ち得る.これはとりもなおさず,下位レベルのモデルでは見えないような因果構造が,上位レベルのモデルに現われているということである.これはもちろん,下位レベルの法則によって記述できないような性質が上位レベルにあるということなので,REに相当する.ここで思い出すのが,「考え深い読者よ,政治的党派心のバイアスのかかったオッカム的な先入観——思考においても,存在においても,発展過程においても,不確定なものは,完全な確定性という原初的状態からの退化に由来する,という先入観を取り払いなさい」というPeirceの言葉である.上位レベルのパターンが下位レベルのパターンの単なる「圧縮」だというのは,Peirceの言うところのオッカム的な先入観なのではないだろうか.

下方因果

自己組織化や創発の議論でよく話題になるのが,いわゆる「下方因果」(downward causation / top-down causation)である.しかし,Seagerの本に触発されて下方因果についての研究をいくつか読んでみたところ,用語の使い方が曖昧で,議論が酷く混乱している印象を受ける.Menno Hulswitが指摘するように("How Causal is Downward Causation?"),原因と結果それぞれの存在様式(一般的な法則なのか,個別的な出来事なのか,何らかの実体なのか)にほとんど注意が払われていないことが,混乱を生み出す要因の一つになっているように思われる.また「下方因果」というときの因果性が,作用因なのか,それとも形相因・目的因的なものなのか,判然としないことが多い.

下方因果の捉え方として有望だと思われるものが二つある.一つは,下方因果の「原因」に相当するのは,下位レベルの法則に付加される「境界条件」だというMichael Polanyiの理論である(例えばKnowing and Being: Essays by Michael Polanyi, pp. 233–34).例えばある言語で発話される文章をいくつかの階層に分けるとすると,最下位には音韻があり,次に語彙があり,その次に文法規則があり,その次に文章作成のスタイルがある,といった具合である.音韻は,与えられた言語で許される音の組み合わせを規定するが,でたらめに音を並べただけでは単語にならないので,さらにその言語の語彙を指定する必要がある.語彙は音韻の規則を破ることなく,許される音の組み合わせを制限する.同様に,でたらめに単語を繋ぎ合わせただけでは文にならないので,単語の組み合わせ方に制限を加える文法規則がさらに必要である.このように上位レベルの規則は,下位レベルの規則を破ることなくそれに対して制限を加える「境界条件」になっているというのがPolanyiの理論である.生命の階層と,物理的・化学的な法則によって支配される非生命的物質の階層の間にも同様の関係があると彼は言う.この理論では,下方因果の「原因」に相当するのは,下位レベルの法則に付加される一般的な法則だということになる.しかし,こうした境界条件がどのように生じるのかはあまり明らかでない.

もう一つの捉え方は,下方因果は形相因・目的因的なもので,「原因」に相当するのは一般的な法則だというもの.Peirceの立場がこれに該当すると思われる.例えばスポーツ観戦で熱狂する群衆を考えると,群衆の一人一人のメンバーの振る舞いは,群衆全体の雰囲気の影響を受けるが,この影響は,「一般的な法則ないし習慣が個々の出来事を,共通のパターンに従うように方向付ける」という意味で目的論的な影響である.このような影響が可能であるためには,(単なる無知の表れではないという意味で)客観的な偶然が必要である.というのも,もし各要素の振る舞いがすべて決定論的に決まっているとすれば,目的論的な法則がそれを「方向付ける」余地はなくなってしまうから.目的論的な法則は,そこからの逸脱の可能性があって初めて成立する.

2017年10月15日日曜日

時間の観念は矛盾律の破れを解消するために生じる

Peirceの1908年の論文「不思議な迷宮―結論部」("Some Amazing Mazes: Conclusion")に面白い一節があるので、日本語に訳してみた。原文のpp. 463-64からの抜粋である。



But on analyzing carefully the idea of Time, I find that to say it is continuous is just like saying that the atomic weight of oxygen is 16, meaning that that shall be the standard for all other atomic weights. The one asserts no more of Time than the other asserts concerning the atomic weight of oxygen;—that is, just nothing at all. If we are to suppose the idea of Time is wholly an affair of immediate consciousness, like the idea of royal purple, it cannot be analyzed and the whole inquiry comes to an end. If it can be analyzed, the way to go about the business is to trace out in imagination a course of observation and reflection that might cause the idea (or so much of it as is not mere feeling) to arise in a mind from which it was at first absent. It might arise in such a mind as a hypothesis to account for the seeming violations of the principle of contradiction in all alternating phenomena, the beats of the pulse, breathing, day and night. For though the idea would be absent from such a mind, that is not to suppose him blind to the facts. His hypothesis would be that we are, somehow, in a situation like that of sailing along a coast in the cabin of a steamboat in a dark night illumined by frequent flashes of lightning, and looking out of the windows. As long as we think the things we see are the same, they seem self-contradictory. But suppose them to be mere aspects, that is, relations to ourselves, and the phenomena are explained by supposing our standpoint to be different in the different flashes. Following out this idea, we soon see that it means nothing at all to say that time is unbroken. For if we all fall into a sleeping-beauty sleep, and time itself stops during the interruption, the instant of going to sleep is absolutely unseparated from the instant of waking; and the interruption is merely in our way of thinking, not in time itself.

しかし時間の観念を丁寧に分析してみたところ、時間が連続的であると言うのは、酸素の原子量が16である、つまり酸素を他のすべての原子量の規準にすると言うのと全く同じである、ということを私は見出した。後者が酸素の原子量について何も主張しないのと同様に、前者も時間について何も主張しない。もし時間の観念が、深紫色の観念と同様に、完全に非媒介的的意識の問題だとすれば、それを分析することはできず、探究自体がそこで終わってしまうだろう。もし分析できるなら、我々が行うべきなのは、その観念(あるいは単なる感じではない限りでのその観念)を、当初はそれが不在であった精神において生じさせ得るような一連の観察と反省の過程を、想像の中で辿ってみることである。それは、脈拍、呼吸、昼と夜といった、あらゆる周期的現象における矛盾律の破れに見えるものを説明するための仮説として精神に生じるかもしれない。というのも、そのような精神において[時間の]観念が不在であったとしても、それは、彼[その精神]が諸々の事実に対して盲目であると仮定するのと同じではないからである。彼の仮説は、次のようなものになるだろう。すなわち、なぜか我々は、暗い夜に蒸気船の船室の中にいて、沿岸沿いを航海しているというような事態にいる。外[の景色]は雷の光で頻繁に照らされ、我々は窓からそれを見ている。我々が見ているものが全部同じものだと考える限り、それは自己矛盾したものに見える。しかし、それらのものが単なる側面、つまり我々自身に対する関係であると仮定すると、雷が外を照らす度毎の我々の視点が異なると仮定することによって、現象を説明することができる。この考えを敷衍してみると、時間が途切れていないと言うのは全く無意味であることがすぐに分かる。というのも、もし我々全員が眠り姫的な眠りに落ちて、その空白のあいだ時間そのものが止まるとすると、眠りに落ちる瞬間と起きる瞬間は全く切り離されていないからである。空白は時間そのものにではなく、あくまで我々の考え方にあるだけである。